sareluo’s diary ー 脚下照顧

これは私が精神を病み休職してから立ち直るまでを記したブログ

カウンセリングって凄い

慰めてくれる人が「その時」にいること

今朝ツイッターを見ていて

「落ち込んだ時に主人公ならなんて言ってくれるか考えてた」

という内容で画像が回ってきた。

 

それぞれ4人の漫画の主人公が我々を励ましてくれる絵だ。

 

そこで私はふと、

「『あの時』、そう言ってくれる人がいたなら」

と考えてしまうのである。

 

何故なら、1回目、2回目についた傷ではなく、

もはや何回かも分からないN回目についた傷に対して「励まし」の言葉をもらっても

正直なところ意味がないからだ。

 

だって、既に「自分が」「自分に」やってきたことなのだ。

 

自分が傷ついたとき、傷つく時間を過ごさないといけないとき、

「もう少しで終わるから頑張ろう」

「次は上手くいくようにしよう」

「うじうじしていてもしょうがない」

と言ってくれるのは自分だけだったのだ。

 

だからそれらをN回目に初めて他人に言われたところで

湧き上がるのは怒りだったり、無力感だったりする。

 

しかしその状態からわかる通り、

自分で自分を励ましたとしても傷は必ず残ってしまっているのである。

 

どれだけ「大丈夫だ」と言い聞かせても傷は治らず、

むしろ気づかぬうちに膿んで「その時」以上の悪影響を身体に及ぼす。

 

新しい傷であれば励ましに対し素直にうなずけたのに、

膿んでしまった傷では達観してしまったかのように冷めてしまう。

 

そんな時必要なのは「一緒に頑張ってくれる人」ではない。

 

一緒に向き合ってくれる人」なのだ。

 

カウンセリングとは過去と向き合うこと

カウンセリングは「受ける」ものだ。

 

だから何となく、

病院で診察を受けるように自分の症状を話して

それに対して先生が「こうしなさい」と薬や指示を出す、

というイメージを持つ人が多いのではないだろうか。

 

私はこれまで4回カウンセリングを受けてきたが、

上記のようなイメージは既に覆されている。

 

カウンセリングはむしろ、

クライエント(患者のこと)が一方的にカウンセラーに対して話をして終わる。

 

カウンセラーは適宜相槌を入れたり、

クライエントの誤った知識を正す以上のことはしてこない。

(カウンセラーによってやり方は違うのだとは思うが)

 

「こっちが話をするだけ?」と思うかもしれないが、

重要な前提条件が抜けている。

 

今まで誰にも話せなかった」話をクライエントはするのだ。

 

それはまさに自分で自分の傷に触れるという行為だ。

 

誰にも話してこなかったから、どう言葉にすれば良いかもわからない。

何とか言葉を捻りだしていると、涙も出てきてしまう。

でも、自分ではなぜ涙が出てくるか分からず混乱してしまう。

本当は、触れるのが痛くて、痛くて、

本当に痛くてたまらないから泣いているのに、

それに気づくことすらできないほど複雑についてしまった傷だ。

1人では到底受け止めることなどできない。

 

だからこそカウンセラーがいる。

 

私から見たカウンセラーの役割は2つ。

1つは「今まで誰にも話せなかった話を引き出してあげること」。

もう1つは

「引き出した話をクライエントと一緒に受け止め、フォローしてあげること」。

 

カウンセラーは正しい知識を持ってクライエントの話を受け止め、

クライエントが折れないように支えてあげるのだ。

 

そうしてクライエントは過去の気持ちを整理し、

真っ白な気持ちで過去と向き合うことができる。

 

結果クライエントはそれまで持つことのなかった新しい視点や疑問を持ち、

それがいつの間にか生きるためのエネルギーへと変わっていく。

 

カウンセリングとは未来に向くために過去と向き合うことであり、

カウンセラーはその手伝いをする。

 

私自身の経験から、そんな風にまとめてみたのであった。

 

過去と向き合うこととは、私にとって

そんな風に書くからには、

私もカウンセリングによって新しい視点や疑問を持つようになったのだ。

 

カウンセリングを行っているうちに、

失敗は恥だ」という思考が私の根底に存在することが分かった。

それは、過去小学生くらいの子供の頃に、

色んな失敗に対して両親から激しく叱責を受けたことを覚えているからである。

 

しかし、カウンセラーの方がこう言った。

子供は失敗して当然ですよ」、と。

 

それに対して私も当然だと思った。

同時に、きっと私の両親も当然だと思うだろう、と思ったのである。

 

子供は失敗して覚えていくもの。

そんなこと当たり前のことを知らないような人たちではないと

私は両親のことを信頼している。

 

では、なぜ彼らはそこまで失敗に対して敏感だったのだろうか?

子供の失敗に対して本気で怒らなければいけない理由が、

彼らにあったのだろうか?

あるならば、それは一体どんなことが原因の理由なのだろうか?

そんな疑問が私の頭に浮かんできたのである。

 

そして、ほぼ同時に、「両親と真剣に話をしてみたい」と思ったのだ。

 

その瞬間、私の両目から涙が溢れて止まらなくなってしまった。

 

どれだけ抑えようとしても全く止まる気配のない涙。

 

何とかしてやっと泣き止んだ時、私は思った。

「私はずっと、両親と本心で向き合いたかったのかもしれない」。

それを自分でも気づかず本能で望んでいて、

今やっと理性もそのことに気づいた。

その歓喜の涙だったのではないか、と。

 

私は今まで「どうやって両親に謝ってもらうか」ということしか頭になかった。

自分の今の生きづらさはお前らのせいなのだと、声高に訴えたかった。

 

しかし今はそんなドロドロした気持ちではなく、

むしろすっきりとした気持ちで両親に問いたい。

「どうしてそこまで怒っていたのか?」

「あなたたちも失敗に対して恐れていたのか?」

そうして両親と分かりあいたいという気持ちで一杯だ。

そうすることができれば、私は本当の意味で過去を清算できると、

そう感じているのである。

 

私にとって過去に向き合うとは、両親と向き合うことであるに違いない。

そう今は信じている。

 

 

 

 

 

 

とは言ったものの、では早速、と急に実家に帰るのは性急だと考え、

今は「どうやって話をしようか」ということを考えている。

 

9月中に話し合いの場を設定できればよいのだが、

いつ、どこで実施するかも考えなければならない。

 

そして実施できたときには、またこのブログに結果を書くことができると思う。

その時良い報告ができるように頑張りたい。

 

それではまた、別の記事で。